もうずいぶん足を運んでいないが、とてもお気に入りの宿がある。
現代アートが敷地の自然の中の、そこかしこに置かれる宿…。
どうしてこの宿を私は好きなのだろうか…。
同じクオリティの宿はもちろん沢山あるし、同じような感動は体験できる。
その中でなぜ、私はこの宿をいつも心に想うのだろう…。
再訪したその宿の朝のカフェで、目の前に広がる川の景色と木々の色合い、そこに置かれた石のアートと繋がる空を見ながら、ふっと、そう突然ふっと、気が付いた。
私が読みたいものと出会ったときの感動と同じだったのだ。
「この思いと同じ気持ちをもった誰かがそこにいる」
その喜び。
「ああ、いてくださったんですね」
という安堵感。
そして、ひとり言葉にもできない感動のうちに思っていたことを、誰かが同じように思っていたかもしれない奇跡…。
そう、この奇跡に言いようのない幸せを感じるのだ。
自分の詩を読まないのですか?と聞かれるたび、自分でもどうしてなのだろうと思っていた。
どうして私は誰かの作品を読みたいと強く思うのだろうと。
宿のカフェから見えた景色は、自然の中に溶け込むように配置された石のアートだったが、
作品を置いた作家はきっと、この景色の中で、そこにあるものすべてに圧倒されていたのだろうと、感じた。
そして、あの場所に作品を置きたいと願った。
そのことが突然私の中に入ってきて、ただ、泣いた。
同じものを美しいと思う、喜びだと思う。そして、せつなく思う…。
そんな言葉との出会いの中で、その出逢えた感動を音にしていきたいと、いつも私は思っていたのだ。
そして、今回もこころから読みたい言葉だけをぎゅっと詰め込んだ作品ができた。
その言葉を読むには、「その言葉が何か」ということを、理解できていることが前提で、
それがないままに、その言葉を伝えることは不可能だ。
それはまた、読み手側の人生への理解に拠って深みをますのだから、人生の学びと発見はますます深まる。
ガユーナ・セアロ師の言葉は出会ってから作品にするまでに10年の年月が流れていた。
おかざわゆめこさんの言葉も作品にするまでには同じ年月が必要だった。
両氏の言葉を読むために、私の体験や世界を感じる力がその年月分必要だったのだ。
作品を作り上げながら、ずっと感じていた。
この言葉たちは、今を歩く私たちへの応援であり、時に人生をけん引する力であり、そして、そっと隣にすわる隣人だ。
人は言葉に救われる。
これは言葉を持つ人間の深い幸せであり、喜びであろう。
この世界はとてつもなく美しく、そして、素晴らしく、でもまた、体験の場であるがゆえの様々な出来事が起きている。
私たちはみんな例外なく、人間として、その局面をどう乗り越えていくかを学んでいる。
この先の道をどう歩いたらいいか…。
そんな場所に立つ、誰かの足元をそっと照らすような言葉を読みたい。
いつも、そう思って言葉を音にする。私が言葉に足元を照らされ、歩むことができたように。
改めて、この言の葉たちを読めるようになるまでに導いてくださった人生の師、そして貴方に感謝を捧げます。